2008年02月06日
森鴎外
ってどんな人物?
森 鷗外(もりおうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)-大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、軍医、官僚。第二次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京帝国大学医学部卒。
大学卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、軍医総監となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任している。
注:鴎外の「鴎(U+9D0E)」の字は、正しくは「鷗(U+9DD7)」である。
生い立ち
1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[1]、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになる。
廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、翌年、住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。東京では、官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得するため、私塾の進文学社に入っており、その際に通学の便から、親族の西周(にし・あまね)邸に寄食している。このような幼少期を過ごした鴎外は、ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。
ドイツ留学と初期の文筆活動
1874年(明治7年)、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り入学し、1881年(明治14年)に19歳8か月で卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。その後、陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務。1884年(明治17年)、ドイツ留学を命じられ、10月にベルリン入り。留学中は、ペッテンコーフェル等に就いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けている。また、北里柴三郎とともにコッホのもとを訪れたり、ナウマンを批判したりしている。1888年(明治21年)に帰国し、陸軍軍医学校・大学校教官に任じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在一月ほどで離日する出来事があり、このことが小説『舞姫』の素材の一つになっている。後年、エリーゼと文通するなど、その人を生涯忘れることができなかったとされる[2]。
1889年(明治22年)、新声社訳として『於母影』を発表し、弟の三木竹二などと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊した。海外文学の翻訳も多く始め(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)[3]、以後、熱心に啓蒙的文筆活動をすることになる。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人それも白人とが恋愛関係になる『舞姫』は、読者を驚かせたとされる。ちなみに、そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草子』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げている。1894年(明治27年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として出征。帰国後、『しがらみ草子』の後を受けて幸田露伴、斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評『三人冗語』を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。
小倉「左遷」から歴史小説へ
1899年(明治32年)、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)に「左遷」[4](このとき『小倉日記』が書かれる)され、1902年(明治35年)に東京勤務。1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで日露戦争に第二軍軍医部長として出征し、1907年(明治40年)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に任じられた。このころまでは翻訳が多かったが、1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、これに毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。『半日』『ヰタ・セクスアリス』『鶏』『青年』などを『スバル』に載せ、『仮面』『静』などの戯曲を発表。自然主義の発展や夏目漱石の影響もあり、反自然主義文学の立場で作品を書いている。
1911年(明治44年)に『雁』と『灰燼』の2長編を同時連載。1912年(大正元年)9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に『興津弥五右衛門の遺書』を書き終えた[5]。これを機に歴史小説に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実する。1916年(大正5年)には、後世の鴎外研究家や評論家から重要視されることになる随筆『空車』(むなぐるま)を著した[6]。
任官時の年齢が低いこともあって軍医総監・医務局長を9年つとめて退官し、その後、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)、さらに帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編集に着手した。しかし病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が元号案「昭和」を提出することになる[7]。なお、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価しており、晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうなど新しい女たちの純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝等とも広く交際した[8]。
1922年(大正12年)7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎墓 」とのみ刻されている。向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都の禅林寺と津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。
(以上、ウィキペディアより引用)
あの時代にドイツに渡るなんてすごいことですよね!
相互リンク
鶯谷デリヘル 池袋デリヘル情報 新宿のデリヘル デリヘル デリヘル立川 デリヘル 東京 デリヘル研究所 風俗ホームページ作成 ホームページ作成・デリヘル 渋谷・不動産
- by
- at 09:59