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2008年02月26日

「死ねとは言ってない」朝青龍、


嵐のごとく…なんて言われているよ。
強いことは認める。でも郷に入ったら郷に従え。



 大相撲の横綱朝青龍が、4場所ぶりの優勝を目指す春場所(3月9日初日、大阪府立体育会館)に向け、大阪市内の高砂部屋で始動した。しかし、大阪府立体育会館で開かれた力士会出席後に報道陣に対し怒声を上げるなど、土俵外では相変わらずの粗暴な振る舞いを見せた。

 「言ってないよ。言うわけないだろう。言ったって奴を連れてきてよ」。25日に滞在先の米ハワイから到着した関西空港で、カメラマンに「死ね。この野郎」と恫喝(どうかつ)したと一部で報道されたことを尋ねられた朝青龍が、まくし立てた。

 報道内容を知っていたせいか、力士会後に依頼されていた会見には出席せず帰路を急ぐ。追いすがる報道陣に雪駄を踏まれたことなどで怒りは増すばかり。車に乗り込む間際も「お前、言ってないって」と食い下がるリポーターに吐き捨てた。

 暴言を吐くのはいつものことで、取材を拒否するのもこれまでと変わらない。朝青龍が嵐のように去っていった直後には、白鵬が穏やかに報道陣に対応した。

 春場所が迫り、闘志も高まってきている。朝青龍も朝げいこでは、しこやすり足で体を動かした。「先場所は悔しかった。春場所では全部出し切る」。土俵外の騒動ばかりが先走るが、完全復活は賜杯を手にしなければ、宣言できない。

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2008年02月06日

森鴎外

ってどんな人物?

森 鷗外(もりおうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)-大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、軍医、官僚。第二次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京帝国大学医学部卒。

大学卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、軍医総監となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任している。

注:鴎外の「鴎(U+9D0E)」の字は、正しくは「鷗(U+9DD7)」である。

生い立ち
1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[1]、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになる。

廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、翌年、住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。東京では、官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得するため、私塾の進文学社に入っており、その際に通学の便から、親族の西周(にし・あまね)邸に寄食している。このような幼少期を過ごした鴎外は、ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。

ドイツ留学と初期の文筆活動
1874年(明治7年)、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り入学し、1881年(明治14年)に19歳8か月で卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。その後、陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務。1884年(明治17年)、ドイツ留学を命じられ、10月にベルリン入り。留学中は、ペッテンコーフェル等に就いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けている。また、北里柴三郎とともにコッホのもとを訪れたり、ナウマンを批判したりしている。1888年(明治21年)に帰国し、陸軍軍医学校・大学校教官に任じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在一月ほどで離日する出来事があり、このことが小説『舞姫』の素材の一つになっている。後年、エリーゼと文通するなど、その人を生涯忘れることができなかったとされる[2]。

1889年(明治22年)、新声社訳として『於母影』を発表し、弟の三木竹二などと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊した。海外文学の翻訳も多く始め(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)[3]、以後、熱心に啓蒙的文筆活動をすることになる。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人それも白人とが恋愛関係になる『舞姫』は、読者を驚かせたとされる。ちなみに、そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草子』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げている。1894年(明治27年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として出征。帰国後、『しがらみ草子』の後を受けて幸田露伴、斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評『三人冗語』を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。

小倉「左遷」から歴史小説へ
1899年(明治32年)、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)に「左遷」[4](このとき『小倉日記』が書かれる)され、1902年(明治35年)に東京勤務。1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで日露戦争に第二軍軍医部長として出征し、1907年(明治40年)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に任じられた。このころまでは翻訳が多かったが、1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、これに毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。『半日』『ヰタ・セクスアリス』『鶏』『青年』などを『スバル』に載せ、『仮面』『静』などの戯曲を発表。自然主義の発展や夏目漱石の影響もあり、反自然主義文学の立場で作品を書いている。

1911年(明治44年)に『雁』と『灰燼』の2長編を同時連載。1912年(大正元年)9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に『興津弥五右衛門の遺書』を書き終えた[5]。これを機に歴史小説に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実する。1916年(大正5年)には、後世の鴎外研究家や評論家から重要視されることになる随筆『空車』(むなぐるま)を著した[6]。

任官時の年齢が低いこともあって軍医総監・医務局長を9年つとめて退官し、その後、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)、さらに帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編集に着手した。しかし病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が元号案「昭和」を提出することになる[7]。なお、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価しており、晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうなど新しい女たちの純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝等とも広く交際した[8]。

1922年(大正12年)7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎墓 」とのみ刻されている。向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都の禅林寺と津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。
(以上、ウィキペディアより引用)

あの時代にドイツに渡るなんてすごいことですよね!

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